2007年09月30日

地図ー小倉ビックバンドほか


小倉北区紺屋町7-17 ダイヤビル2F  093-551-4395

  

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2007年09月30日

地図-黒崎ストロベリーサワー

黒崎4丁目1-8 2F TEL 093-622-5201 (黒崎駅から徒歩5分) 営業時間 PM7:30~AM2:00

  

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2007年09月30日

地図-黒崎ARK

八幡西区紅梅2-8-20 TEL 093-621-1531(黒崎駅から徒歩10分)




  

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2007年09月20日

地図newcombo&backstage

NEWCOMBO 092-712-7809 中央区渡辺通5丁目1-22  
ランチ & 珈琲タイム 11:30~15:30  ライブ & パブタイム 日~木19:00~02:00/金、土及び祝日の前日19:00~03:00  定休日 : 不定休(但しお昼の営業は土,日 ,祝日お休み)




BACKSTAGE(バックステージ) ℡092-712-2828

中央区大名2-4-31 平子ビル1F
月~木 11:00~24:00  金11:00~27:00 土18:00~27:00 日祝休

  

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2007年09月19日

地図-勝屋酒造

勝屋酒造合名会社 〒811-4146 福岡県宗像市赤間4丁目1-10 TEL 0940-32-3010 FAX 0940-32-4772  西鉄バス西鉄赤間営業所 徒歩7分/JR鹿児島本線教育大前駅 徒歩7分


  

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2007年09月19日

地図-久留米べテルキリスト教会

久留米ベテルキリスト教会
〒830-0052 福岡県久留米市上津町2192-172
Tel. 0942-21-8638 Fax.0942-51-0888

野添バス停より約5分







礼拝プログロラム:聖書研究会  水曜日 8:00 pm 金曜礼拝11:00 am  日曜 第一礼拝6:30 am 第二礼拝9:00 am 第三礼拝10:30 am   教会学校 :第2~5週日曜礼拝時 (幼稚科・小学生・中学生の各クラス)  

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2007年09月16日

拓郎inWKP

吉田拓郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年4月5日 - )は、日本の男性シンガー・ソングライター。本名同じ。旧芸名は平仮名の「よしだたくろう」。鹿児島県大口市生まれ広島県広島市南区西霞町育ち。鹿児島市立谷山小学校~広島市立皆実小学校~広島市立翠町中学校~広島皆実高校~広島商科大学(現・広島修道大学)卒業。夫人は四角佳子~浅田美代子~森下愛子。おひつじ座。血液型A型。身長176cm。竹田企画、インペリアルレコード所属。

目次 [非表示]
1 人物
2 来歴
2.1 生い立ち
2.2 アマチュア期
2.3 よしだたくろう期(1960年代~1975年)
2.3.1 エレック所属期
2.3.2 CBS(オデッセイレーベル)所属期
2.4 フォーライフ設立・吉田拓郎に改名
2.4.1 つま恋のステージの盛況
2.4.2 篠島コンサート
2.5 1980年代
2.6 1990年代
2.7 2000年代以降
2.7.1 つま恋2006
3 作品リスト
3.1 シングル
3.2 アルバム
3.3 提供曲
4 書籍
4.1 自著等
4.2 解説書等
4.3 写真集他
4.4 参考文献
5 外部リンク
6 エピソード
6.1 その1
6.2 その2
6.3 その3



[編集] 人物
日本のシンガーソングライターの草分け的存在で、当時まだまだマイナーな存在だったフォークとロックを一気に日本の音楽シーンのメインストリームに引き上げ、また大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立など様々な新しい道を開拓したパイオニアとして、日本ポピュラーミュージック史における最重要人物の一人である。

高校時代にボブ・ディランの影響を受け、大学在学中にベンチャーズスタイルのバンドでコンテスト優勝。70年、自主製作盤「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」で注目を集め、同年エレックレコード入社。初アルバム「青春の詩」を発表し、71年「結婚しようよ」72年「旅の宿」が大ヒット。 1975年井上陽水、小室等、泉谷しげると歌手たちの手による初のレコード会社「フォーライフ」を設立。1977年には社長に就任。1982年に退任。1999年ベスト盤「ペニーレイン」を発売して同社を退社。近年はフジテレビ「LOVELOVEあいしてる」などテレビでも活躍。 2003年、肺がん摘出手術を受けるも同年の全国ツアーで復活。


[編集] 来歴

[編集] 生い立ち
鹿児島県大口市生まれ。父親は鹿児島県庁に勤務。鹿児島の郷土史を研究する仕事をしていた。9歳の時両親が別居。既に東京の大学に行っていた兄は別に、母親は姉と拓郎を連れて郷里である広島に転居。

立教大学でジャズ研に入り、ピアニストを目指していた兄が、休みになると女性同伴で帰郷したのがきっかけで音楽に興味を持つ。 幼少期から喘息持ちで体が弱かったため、家にいる事が多く、母に本を買い与えられていたが、音楽に興味を持ったためウクレレを買ってもらい音楽を始めた。

1962年、皆実高校に入学し、級友とトーン・ダイヤモンズという、インストゥルメンタルバンドを結成。ウクレレのパートを担当した。 高校2年の時、自宅に下宿していた広大生にクラシック・ギターを教えてもらう。

曲作りで最も影響を受けた曲としてパーシー・フェイス楽団の『夏の日の恋』とボブ・ディランの『風に吹かれて』を挙げている。1964年、バンドはビートルズの影響を強く受け、ビートルズのコピー専門となった。バンド名も「プレイボーイズ」に変更。


[編集] アマチュア期
1965年、大学に入学しカントリー&ウエスタン部に入部。応援団にも入部。 また、中学の同級生と新たに「ザ・バチュラーズ」を結成。ドラムスを担当。 秋、初コンサート。ビートルズのコピー他、オリジナル曲も演奏した。メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むが、相手にされなかった。

1966年、カレッジフォークブームを受け、バンド活動と平行してソロでフォークスタイルの活動を始めた。 ソロでコロンビア主催のフォークコンテストに出場。自作曲『土地に柵する馬鹿がいる』を針金を曲げて作った手製のハーモニカホルダーと改造した12弦ギターで歌う。この曲は4分の5拍子の変拍子として有名なデイヴ・ブルーベックの「テイク・ファイブ」のリズムパターンをストロークを切りながら歌ったもの。 「平凡パンチ」に「和製ボブ・ディラン」と紹介され広島では有名人となる。自身もディランの生き方に憧れ、ディランが若い時、家出を繰り返したことをまねた。またこの頃、外国のフォーク、ロックの歌手達が古い民謡をカバー。こういった曲を集める民謡収集家なる仕事があることを知り、フォークの研究も兼ねこの年の秋、再び家出し単身上京。 友人に「東京近辺で民謡が聞ける所は千葉」と聞き、汽車に乗り検見川駅で下車。付近に旅館が無かったため広徳院で半年居候した。しかし収穫のないまま帰郷。この影響で大学は1年休学し、5年間通うこととなる。

1967年、4人グループの「ダウンタウンズ」を結成。ギターとボーカルを担当。 広島市内のカワイ楽器を練習拠点にし定期的にここでコンサートを開いたほか、ビアガーデン、海の家、米軍岩国基地などで演奏した。 当時はベトナム戦争が最も激しかった頃であり、岩国基地は沖縄と並ぶ最前線基地だった。ここではエレキギターでのリズム&ブルースやロックも演奏した。後年の中津川フォークジャンボリーでのゲリラ演奏には、このときの経験が影響している。

レパートリーはビートルズ、ローリング・ストーンズ、スペンサー・ディヴィス・グループ、サム&デイヴ、オーティス・レディング、サム・クックや後年、たくろうのレコーディングに参加したブッカー・T&MGSなど。 FEN 岩国放送が聞けたので、ビートルズやボブ・ディランもリアルタイムで聴いた。ディランには詩よりもメロディに影響を受けたが、ビートルズは当初はあまり好きになれなかったという。 洋楽の原点はアメリカンポップスと映画音楽。ニール・セダカ、コニー・フランシス、リック・ネルソンやヘンリー・マンシーニら。 、広島見真講堂で開かれた第2回LMCで中国地区優勝。この時演奏した1曲『好きになったよ女の娘』は後の『たどり着いたらいつも雨降り』の原曲。 翌1968年も同大会に出場、全国4位となった。この頃から全国的にも知名度を上げていった。

1968年の春、広島の3つのフォーク団体が、アマチュアフォークサークル「広島フォーク村」を結成。顧問として参加する。ファンだった岡林信康の「私達の望むものは」に感動はしたが、「私達は、と言えない。俺は俺っていう歌を作りたい」と「イメージの詩」を作る。 この年、激しい学園闘争をした広島大学の、バリケードで囲まれたステージで「イメージの詩」を歌う。演奏終了後、白いヘルメット姿の学生たちに取り囲まれ激しいアジテーションを浴びせられた。

1969年、広島で就職が決まっていたが、上智大学全共闘のメンバーが自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作する事になり、これに参加。

1970年、エレックレコードと社員契約。「ダウンタウンズ」を解散し、大学を卒業した同年3月上京する。


[編集] よしだたくろう期(1960年代~1975年)

[編集] エレック所属期
1970年3月、再び「平凡パンチ」に、4ページに渡り特集記事が掲載される。4月、先にユーゲントレーベルから「広島フォーク村」のアルバム・『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』が発売される。4月、インディーズレーべルのはしりとも言うべき、エレックレコードが同アルバムを発売。エレック盤にはユーゲント盤に付いていた写真集はついていない。

エレックは元々英会話レコード等の通信販売の会社で、当時の人気DJ・土居まさるのレコードを出すため、音楽部門が出来たような会社だった。社員は6人ほどで、吉田との契約は、アーチストでは無く月給制の社員契約。初任給は3万5千円だった。

4月、最初のユーゲント盤からシングルカットした「イメージの詩 / マークII」をエレックが本人に無許可でリリース(「イメージの詩」は、アルバムヴァージョンを雑にエディットしたヴァージョンで、「マークII」はアルバム収録ヴァージョンと殆ど同じアレンジながら別ヴァージョン。現在までこのヴァージョンは未CD化。尚ジャケットは後発ヴァージョンと同じ見開きジャケでジャケで見分けは出来ない)。編集に対し、本人が抗議し、録りなおしたのが6月に発売された再録ヴァージョン「イメージの詩 / マークII」である。これが実質のソロデビュー曲となった(尚これもこれでしか聞けない別ヴァージョンで、こちらはCDシングルボックス『HAVE A NICE DAY』で初CD化された。「イメージの詩」だけならタイムスリップグリコで聞く事が出来る)。自らのレコードの梱包作業を行い、トラックに積み込んでレコード店を回り、さらに店頭で歌うキャンペーンもこなした。またプロモーション活動のため幾つかのテレビ番組にも出演した。

6月、広島フォーク村アルバム発売記念コンサートが、新宿厚生年金会館で開かれた。当時イベントの企画などを手がけていた後藤由多加もこれを見て、その後請負コンサートなどに吉田を起用した。後藤はこれを機に、吉田の重要なパートナーとなる。またこのコンサートの紹介記事を書いた朝日ソノラマが、7月号から9月号に吉田の歌をソノシートにして付録に付けた。このため吉田は後年、このエピソードを「僕はソノシートでデビューしたんだ」と語っている。ソロデビューの仕方は曖昧だったが、もちろんソノシートでデビューした訳では無い。11月、ファーストアルバム『青春の詩』でデビュー(中沢厚子との「男の子☆女の娘(灰色の世界I)』や「雪」等)。

1971年4月、シングル「青春の詩 / とっぽい男のバラード」発売。ライト・ミュージック・コンテストの審査員を担当した時小室等と出会う。6月、アルバム『よしだたくろう・オンステージ ともだち』発売。この中には自作のほかに斉藤哲夫の曲も取り上げている。7月、「今日までそして明日から / ともだち」発売。

夏中津川フォークジャンボリーに出演。当初出演予定は無く後から出演が決まった。メインとサブステージの分け方に不満があり、出演順を巡ってトラブルが繰り返された。1日目は3曲しか歌わせてもらえず。2日目の夕方、数百人にも満たないサブステージで歌い始めた吉田のPAにトラブルが発生。小室等と六文銭をステージに呼び、マイク無しで演奏を続行した。「人間なんて」等、2時間近く演奏を続けるうち観客が増え、小室の「メインステージに行こう!」の言葉が引き金となり、観客がメインステージに流れ込んだという。前日の雨で会場の環境も悪かった事も有り、観客の不満も鬱積しておりステージを観客が占拠、演奏は中止され主催者との討論会となり、そのままコンサートも自然流会してしまった。

10月、TBSラジオの深夜放送・パックインミュージックのパーソナリティを務め人気がさらに上昇した。

10月、後藤由多加と吉田が中心となってユイ音楽工房を設立。エレックで社員扱いだった吉田の作品には、作詞、作曲、歌唱の印税保証は無く、後藤に聞かされ初めて歌にそういう権利がある事を知る。これをきっかけに、自分の歌の権利を自分で守るという意識がフォーク界に浸透した。 11月、「人間なんて」の弾き語りヴァージョンを含むアルバム『人間なんて』を発表。エレックより最後のリリースとなる、このアルバムはプロデューサーを吉田自身が務め、ディレクターに加藤和彦、またアレンジャーや参加ミュージシャンに小室等、遠藤賢司、松任谷正隆、林立夫(のちティン・パン・アレー)、小原礼(のちサディスティック・ミカ・バンド)ら、この後日本のロック&ポップスの礎を築くことになるミュージシャンが参加。アルバム内の「花嫁になる君に」は、のちに黄金コンビと呼ばれる作詞家・岡本おさみとの第1作となる。


[編集] CBS(オデッセイレーベル)所属期
1972年1月、当時はまだ新興だったCBSソニーに完全移籍。同時に発売したシングル「結婚しようよ / ある雨の日の情景」は、前シングルの「今日までそして明日から」に続きCBSソニーからのリリースだった。

結婚しようよはオリコンチャート3位を記録し、40万枚以上を売る大ヒットとなった。“僕の髪が肩までのびたら結婚しよう”と言う男側からのプロポーズソングなど斬新なものであった。また、学園闘争の敗北や、アメリカのヒッピー文化、フラワームーブメントが、日本に飛び火した時代を反映したものであることも、インパクトを与える一因であったと言われる。吉田はこの大ヒットで人気を得て“フォークのプリンス”などと騒がれ、若い女子が会場を占拠した。その人気ぶりはGSブームの再来のようだったといわれた。

6月、四角佳子と結婚。自身の生き方や恋愛体験などをテーマにした吉田の歌は、従来のフォークファンからは“商業主義”“裏切り者”“堕落した”などと批判され、ジョイントコンサートなどの会場では“帰れコール”を浴びた。モノを投げつけられ本当に帰る事もあった。一方で、多くの同世代の若者から熱狂的な支持を受けた。婚約発表も自身のラジオ番組、パックインミュージックの中だけ、マスコミの取材・会見も一切しなかった。おめでたい結婚でマスコミを拒否するという事も当時の常識では考えられないことだった。この頃の吉田は、ダンガリーのシャツにギブソンのギター、ハーモニカ・ホルダーを首にかけ、歌詞カードを譜面台に乗せ座って歌うというスタイルだった。

6月、シングル「旅の宿 / おやじの唄」発売。60万枚を売りオリコン1位を記録。7月、シングルとは別ヴァージョンの「旅の宿」を含むアルバム『元気です。』をリリース、これも大ヒットを記録。オリコンアルバムチャートで13週連続1位を記録しアルバム・セールス時代の先鞭をつけた。

1970年から始まった国鉄の“ディスカバー・ジャパン”を地でいくような「旅の宿」の大ヒットに目を付けた富士フイルムは、同年吉田の作詞・作曲・歌によるCMソング「HAVE A NICE DAY」を連日放送した。内容は全編広島弁の歌詞の吉田の歌に合わせて若者がポーズをとるというものであった。

7月、モップスのアルバムに「たどりついたらいつも雨降り」を提供。CBSソニーとプロデューサー契約を結び、ワンマンレーベル「オデッセイ」を立ち上げた。大レーベル内の個人レーベルという、これまた画期的な事だった(もともとは「オデッセイ」のレーベル商標は、コロムビア・レコードの、アメリカ国内でのクラシック音楽のレーベルのものであった。日本では、この商標の使用権をCBSソニーが吉田サイドに貸与していたものと思われる)。それらのヒットに便乗して古巣エレックレコードは本人の許可なく2枚組ライヴアルバム『たくろうオンステージ第二集』をリリースするが、本人に無許可だったため、発売中止に。現在に至るまでCD化されていない。

10月、シングル「おきざりにした悲しみは / 花酔曲」発売。又、この年松竹映画『旅の重さ』の音楽を担当。この映画で「今日までそして明日から」が好評を得た。その他小室等のレコーディングライブに高田渡と共にゲスト出演している。フォークグループ・猫のデビューにラテン調の「雪」を提供。

1973年1月、前年バックバンドを務めた柳田ヒロのグループを発展させ"新六文銭"を結成。メンバーは小室等(ギター)、柳田ヒロ(キーボード)、後藤次利(ベース)、チト河内(ドラムス)、吉田(リードギター)だったが、まともに音源は残さぬまま消滅した。理由は新六文銭ツアー中、吉田が逮捕されたためである。ファンの女子大生が、1ヶ月前の金沢公演の夜、吉田に暴行されたと訴えたというものだった。結局、容疑は女子大生の狂言であり、不起訴となり釈放されたが、この時期マスコミの吉田に対する敵意がバッシングという形で現れ、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、CMは自粛といった処置がとられた。無罪で無く不起訴だったためか各種媒体からの謝罪はほとんど無かった。しかし独房に勾留中発売したアルバム『伽草子』が前作に続きチャート1位を記録。釈放の翌日、早くも神田共立講堂のステージに立つ。

同年秋、タレント売り出しに何千万もかけてテレビ中心に売り込みをかける当時の業界への反発から、日本のミュージシャンで初めてPA、照明などのスタッフを帯同しての全国ツアーを敢行。当時、この手法は色々と困難であるという指摘を受けたという。実際、会場が取れないなどの軋轢も生んだが、やがてこのシステムが一般的となった。この事は、従来、地元の興行師が仕切って来た運営が縮小し、地方のイベンターや、ぴあに代表されるチケット事業、情報サービス事業など、新たな産業を生み出した。10月、神田共立講堂で2日、渋谷公会堂で同じく2日と4日連続公演、これも今では珍しくない大ホール連続公演の日本でのさきがけといわれる。

日本初の本格的ブラス・ストリングスを加えた同年に行われたライブを『LIVE'73』としてリリース。

金沢事件以来、楽曲の提供依頼は途絶えていたが、森進一からの依頼で、この年の暮れ、作詞・岡本おさみ、作曲・吉田、歌・森進一で「襟裳岬」を発売した。

1974年、広島フォーク村の後輩、浜田省吾らがいた「愛奴」をバックバンドに従え春と秋に全国縦断ツアーを敢行。 かまやつひろしとのデュエット曲「シンシア」などを収録したアルバム『今はまだ人生を語らず』を発売。収録曲「ペニーレインでバーボン」の歌詞の一部に問題があるとされ、現在ではこのアルバムのCDは販売されていない。この年は松山省二、浅田美代子、小柳ルミ子らに楽曲を提供。12月31日大晦日、「襟裳岬」が日本レコード大賞受賞。吉田は授賞式にジーンズで登場した。当時最も権威ある音楽賞を吉田が受賞したことは、それまでの職業作詞家・作曲家の楽曲プロデュースの時代から、現役ミュージシャンによる楽曲プロデュースという、新たな時代の到来を予感させるものだった。


[編集] フォーライフ設立・吉田拓郎に改名
1975年、CBSソニーの吉田が、ポリドールの井上陽水、エレックの泉谷しげる、ベルウッドの小室等と共にフォーライフ・レコードを発起した。設立の経緯は、CBSソニー内に個人レーベルを持ち、レコーディングに於いてはプロデュースという形で権限を与えられたものの、その先の営業・宣伝にもおける全権を握りたい、と考えていた吉田に小室が提案したのがきっかけである。社長には小室等が就任した。当時、戦後からレコード会社主導で発展して来た日本の音楽界では、アーティストがレコード会社を持つという事は非常に挑戦的なことであった。歌手が曲作成から広報、営業におけるまで強い権限を持つことで、それまでの組織型の業界のシステムを根本から覆してしまうと、音楽業界の反感は強かった。吉田の友人の中には、プロダクションから吊るし上げに遭う者も出た。又、他のアーティストもあまり参加せず、野澤享司のセカンドアルバムをリリースした程度。最も問題となったのはレコードのプレスと販売ルートであった。それらはほとんど大手レコード会社が持っており圧力を掛けられ、やむなく人件費も安い韓国でのプレスや通信販売まで検討した。そこでキャニオンレコードの社長・石田達郎が、救いの手を差し伸べ、プレス、販路をキャニオンレコード、販売委託をポニーが受け持った。両者はのちに合併しポニー・キャニオンとなった。第2、第3のフォーライフの追随を期待したが、そういった動きは全く無かった。路線変更し、歌謡曲・ポップス路線に重点を置くようになると、フォーライフ創業の4人に足並みの乱れが生じ、1977年ロック志向の泉谷がフォーライフを退社。


[編集] つま恋のステージの盛況
1975年、8月2日、3日、静岡県掛川市のつま恋多目的広場でオールナイトコンサート「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」を敢行。

それまでもオムニバス形式(多数の出演者)やオールナイトでやったコンサートもあったが、観客は数千人から多くて1万人程度であった。このコンサートのように、ほぼ単独のアーチスト、また動員5万人(警察発表7万5千人、チケット発売枚数推定5万6千人)と、これ程大規模なものは前例が無く、これも大規模野外コンサートという、現在では珍しくない一つの形式を作ることとなった。

コンサートは夕刻から始まり12時間、途中ゲストアクトを挟みながら、かぐや姫と交互にステージに立ち、吉田59曲、合計108曲が「人間なんて」の大合唱で夜明けとともに終了した。コンサートの企画、及び運営は、後藤由多加が「ウッドストック」に触発されてユイ音楽工房主導で行ったもの。またこのコンサートの模様を収録したドキュメンタリー映画が作られ、日本全国でフィルム・コンサートという形で上映された。

同年9月、フォーライフ・レコードからの初のシングル「となり町のお嬢さん」発売。この年には他人への提供曲に多くのヒット曲を残した。かまやつひろしのアルバム『我が良き友よ』のタイトル曲は70万枚の大ヒット。他に「いつか街で会ったなら」 / 中村雅俊、「歌ってよ夕陽の歌を」 / 森山良子、「あゝ青春」 / トランザム、「風の街」 / 山田パンダなど。「いつか街で会ったなら」は中村雅俊・松田優作主演の刑事ドラマ『俺たちの勲章』のエンディング曲。「風の街」はTBSのドラマ『あこがれ共同隊』の主題歌。このドラマは原宿表参道を舞台とし、拓郎の「ペニーレインでバーボン」に歌われた喫茶/パブ「ペニーレイン」も実名で登場。出演は郷ひろみ、西城秀樹、桜田淳子、浅田美代子ら当時の人気アイドルや吉田、南こうせつなどニューミュージック系のアーチストが多数出演した人気ドラマである。

1976年3月、シングル「明日に向かって走れ / ひとり思えば」発売。4月、新人オーディションでグランプリを獲得した川村ゆうこをプロデュース。吉田作品「風になりたい」でデビュー。5月、アルバム『明日に向かって走れ』発売。オリコン3週連続1位。11月、吉田の発案で小室ら4人のオムニバスアルバム『クリスマス』発売。初回プレス30万枚、オリコンで1週のみ1位となったものの、累計が10万枚にも満たず、フォーライフの屋台骨を揺さぶる事となった。12月、シングル「たえこMY LOVE」発売。

1977年3月、フォーライフは2年目の決算で8億円の赤字を出す。オムニバスアルバム発案者の吉田はその埋め合わせのため4月25日、ボブ・ディランの他人の曲のカバーアルバム『セルフ・ポートレート』とコンセプトを同じくする『ぷらいべえと』を発売。他人へ提供した曲と自身の愛唱歌をスケジュールに余裕のあるミュージシャンを集め短時間で制作。そのためスタッフ関係のクレジットがアルバムにまったく記載されていない。レコードジャケットも、吉田が週刊誌でキャンディーズの蘭ちゃんを見てクレヨンで書いたもの。この作品では、郷ひろみの代表曲である『よろしく哀愁』などが取り上げられている。『ぷらいべえと』はオリコンで2週連続1位を記録、皮肉なことに、この年フォーライフのアルバムで最大のセールスを記録した。

6月、小室に代わり、社長に就任。7月、浅田美代子と結婚。9月、井上陽水が大麻所持(大麻取締法違反容疑)で逮捕。社長として、記者会見で平謝りした。この後の社長業も、自分から相手の懐に飛び込むべきなどと、関係会社の社長と銀座で飲んだりゴルフも始めたりした。地方の営業所回りで、レコード店のオヤジに頭を下げるのが最大の無力感だったと言う。「フォーライフは他と変わらない普通の会社になった」と泉谷が1978年退社、また1980年代に入りフォーライフが、ひかる一平やザ・ぼんち(恋のぼんちシート)、イモ欽トリオ(ハイスクールララバイ)など、アイドルや色物を手掛けた事で多くの社員も去った。

この年夏、解散を発表したキャンディーズに「やさしい悪魔」と「アン・ドゥ・トロワ」を提供。また前年のフォーライフ新人オーディションに応募してきた原田真二は、選考段階では不合格であったが、興味を示した吉田のプロデュースにより、同年10月に「てぃーんず ぶるーす」でデビュー。その後、翌11月に「キャンディ」、12月に「シャドーボクサー」と当時は前例のない3ヶ月連続シングルレコードリリース。原田は人気を得て、3曲が同時にオリコンベストテン入りするという快挙を達成した。またファーストアルバム「Feel Happy」も、史上初のオリコン初登場第1位を獲得するなど、会社の危機の状態にあって貴重なヒットとなった。


[編集] 篠島コンサート
1979年、7月26日から27日にかけて愛知県篠島を借り切ってオールナイトコンサート。ゲストに小室等、長渕剛を迎え、2万4千人を集めた。デビュー2年目の長渕が一時の吉田のように「帰れコール」を浴びながら最後までステージを押し通した話は長渕の有名なエピソードである。

秋から全国ツアー。急遽12月31日大晦日、日本青年館でのライブが決まり、フジテレビで生放送もされた。このライブで「古い歌は一切歌わない」と宣言した。


[編集] 1980年代
1980年、過去との決別を宣言し、自身初めての海外録音作品である『Shangri-La(シャングリ・ラ)』を発表した。アルバムタイトルは、ザ・バンドのドキュメンタリー映画『ラスト・ワルツ』(マーティン・スコセッシ監督)の舞台となったロサンゼルス郊外マリブ、“シャングリ・ラ”スタジオでの録音による。プロデューサーに、少年期のあこがれの人物の一人、ブッカー・T・ジョーンズを起用した他、スタッフ全員を外国人で固めボーカリストに徹した。11月、代表曲の一つ「アジアの片隅で」を含む同名タイトルアルバム発表。

1981年4月、資生堂のタイアップ曲「サマーピープル」を発売。
オールナイトニッポンの番組企画で吉田のメドレー曲を覆面バンド・ビートボーイズ(正体はアルフィー)が製作。これが思わぬ反響を呼び「スターズオン23 吉田拓郎」(後に「ショック!!TAKURO 23」に改題)としてレコード発売。当時まだ売れていなかったアルフィーのヒット曲となった。

1982年、武田鉄矢が原作・脚本・主演した映画『刑事物語』の主題歌を依頼され、全編広島弁の「唇をかみしめて」を発売し話題を呼んだ。ツアー最中の株主総会で、フォーライフ・レコード社長を退任。後任は後藤由多加が就いた。この年は精力的にツアーをこなし同年7月、日本武道館で行われたコンサートを収録した『王様達のハイキング・イン・武道館』を発売。

1985年、10年ぶり二度目のつま恋オールナイトコンサート"ONE LAST NIGHT IN つま恋"。ライブ引退を宣言した。
同年、映画『幕末青春グラフィティRonin坂本竜馬』に高杉晋作役で出演。

1988年、ライブ引退を撤回し「SATETOツアー」を敢行。

1989年、東京ドーム公演。


[編集] 1990年代
1993年4月から1年間に渡り「地球ZIG ZAG」(毎日放送製作・TBS系列)の司会を務め、番組のエンディングテーマも歌った。これがきっかけとなりタレントとしても開花する。この1年間、ライブツアーは一切行わなかった。

1994年に紅白歌合戦に初出場(曲目は「外は白い雪の夜」)。バックバンドに宮川泰(キーボード)、日野皓正(トランペット)、日野元彦(ドラム)、大西順子(ピアノ)、石川鷹彦(アコースティックギター)、渡辺香津美(エレキギター)、金沢英明(ウッドベース)、吉田建(ベース)を従え、更にバックコーラスとして五木ひろし、森進一、前川清という顔ぶれのステージとなった。

1996年10月からフジテレビ系列の番組「LOVE LOVEあいしてる」にレギュラー出演。テレビ嫌いで有名だった吉田がテレビに出演する事が注目を集めた。この番組では坂崎幸之助と共にKinKi Kidsにギターを指導。番組は4年半続いた。


[編集] 2000年代以降
2003年の春、30年来の夢であったビッグバンド形式でのコンサートツアーを目前にして、健康診断で肺ガンが見つかった。すぐに手術、コンサートツアーは延期となった。手術は無事成功し、秋には復帰コンサートで全国に元気な姿を見せる。これを機に禁煙。ビッグバンドでのコンサートツアーはこの年から毎年行われる事となる。


[編集] つま恋2006
2006年9月23日。31年ぶりにつま恋でかぐや姫とのコンサートを開催。コンサートは午後1時過ぎから、吉田とかぐや姫が一緒に歌う「旧友再会・フォーエバーヤング」に始まり5部構成で午後9時30分過ぎまで続くという大イベントであった。構成は1,3,5部が吉田のステージで、3部ではかまやつひろし、5部では中島みゆきが共演した。主催者発表の入場者数は3万5千人だった。

このコンサートはNHKが生中継を行い、NHKBSハイビジョンにて放送されたが、途中2時間の大相撲中継が入ったために吉田の第2部(全体の第3部)は放送されなかった。なお、2006年10月23日にはNHK総合テレビの「プレミアム10」でコンサートの舞台裏のドキュメンタリーを、2006年10月29日にはNHK-BS2にてコンサートの総集編が放送された。

これらの放送からNHK紅白歌合戦に2度目の出場濃厚との報道も流れたが、吉田は辞退のコメントを出した。





[編集] 作品リスト

[編集] シングル
エレックレコード

イメージの詩 / マークII(1970年)
青春の詩 / とっぽい男のバラード(1970年)
CBSソニー

今日までそして明日から / ともだち(1971年)
結婚しようよ / ある雨の日の情景(1972年)
旅の宿 / おやじの唄(1972年) 吉田拓郎のシングルで唯一のNo.1ソング
おきざりにした悲しみは / 花酔曲(1972年)
伽草子 / こんなに抱きしめても(1973年)
金曜日の朝 / 子供に(1973年)
シンシア / 竜飛岬(1974年) 歌:よしだたくろう&かまやつひろし
フォーライフ

となりの町のお嬢さん / 流れる(1975年)
明日に向って走れ / ひとり想えば(1976年)
たえこMY LOVE / チークを踊ろう(1976年)
もうすぐ帰るよ / Voice(1977年)
カンパリソーダとフライドポテト / あの娘に逢えたら(1977年)
舞姫 / 隠恋慕(1978年)
流星 / アイランド(1979年)
春を待つ手紙 / 外は白い雪の夜(1979年)
あの娘といい気分 / あいつ(1980年)
いつか夜の雨が / 愛の絆を(1980年)
元気です / 証明(1980年)
サマーピープル / 二十才のワルツ(1981年)
サマータイムブルースが聴こえる / Y(1981年)
唇をかみしめて(1982年) 武田鉄矢主演映画「刑事物語」の主題歌
あいつの部屋には男がいる / SORA(1983年)
I'm in love / まあまあ(1983年)
旧友再会フォーエバーヤング / ペニーレインへは行かない(1984年)
ふざけんなよ / 夏が見えれば(1985年)
風をみたか / 夏休み(1985年)
ジャスト・ア・Ronin / Ronin(1985年) 歌:吉田拓郎・加藤和彦(ジャスト・ア・Ronin)
すなおになれば / いくつもの夜が(1988年)
落陽 / 祭りのあと(1989年)
男達の詩(1990年)
俺を許してくれ / 憂鬱な夜の殺し方(1990年)
友あり / たえなる時に(1991年)
吉田町の唄 / 夏・二人で(1992年)
恩師よ / まだ見ぬ朝(1994年)
決断の時(1994年)
マスターの独り言(1994年)
君のスピードで / とんとご無沙汰(1995年)
遥かなる / 今日までそして明日から(1996年)
心の破片 / 僕達のラプソディ(1999年)
気持ちだよ / 気持ちだよ(film version)(1999年)
インペリアルレコード

トワイライト / Os san(2000年)
いくつになっても happy birthday / 朝陽がサン(2001年)
家へ帰ろう / 襟裳岬(2002年)
純 / 流星2003 / ホームラン・ブギ2003(2003年)
東芝EMI

純情 / 5月の風(1993年) 歌:吉田拓郎&加藤和彦(純情) / 5月の風(加藤和彦)
ソニーレコード

蒼い夏 / 今日までそして明日から / 夏休み(1999年)
映画「学校の怪談4」の主題歌としてリリース。
非売品

サヨナラ僕は気まぐれ
HAVE A NICE DAY
僕らの旅
僕の旅は小さな叫び

[編集] アルバム
朝日ソノラマ

メモリアルヒット曲集 '70 真夏の青春
エレックレコード

古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう(1970年)
よしだたくろう 青春の詩(1970年)
よしだたくろう オン・ステージ ともだち(1971年)
よしだたくろう 人間なんて(1971年)
オン・ステージ第二集(1972年)
CBSソニー

元気です。(1972年) No.1を獲得、拓郎のアルバムの中で最大のヒット
伽草子(1973年)⇒No.1を獲得
たくろうLIVE'73(1973年)
今はまだ人生を語らず(1974年) No.1を獲得、森進一に提供した「襟裳岬」収録
よしだたくろう1971~1975(1975年)
フォーライフ

明日に向って走れ(1976年)
ぷらいべえと(1977年) No.1を獲得
大いなる人(1977年)
ローリング30(1978年)
TAKURO TOUR 1979(1979年)
TAKURO TOUR 1979 Vol.2 落陽(1979年)
Shangri-La《シャングリ・ラ》(1980年)
アジアの片隅で(1980年)
ONLY YOU(1981年)
無人島で…。(1981年)
王様達のハイキング(1982年)
マラソン(1983年)
情熱(1983年)
FOREVER YOUNG(1984年)
俺が愛した馬鹿(1985年)
吉田拓郎 ONE LAST NIGHT IN つま恋(1985年)
サマルカンド・ブルー(1986年)
MUCH BETTER(1988年)
ひまわり(1989年)
176.5(1990年)
detente(1991年)
吉田町の唄(1992年)
TRAVELLIN'MAN(1993年)
Long time no see(1995年)
感度良好 波高し(1996年)
みんな大好き 吉田拓郎とLOVE2 ALL STARS(1997年)
ハワイアン ラプソディ(1998年)
吉田拓郎 THE BEST PENNY LANE(1999年)
インペリアルレコード

こんにちわ(2001年)
Oldies(2002年)
月夜のカヌー(2003年)
豊かなる一日(2004年)
一瞬の夏(2005年)

[編集] 提供曲
襟裳岬(歌:森進一 作詞:岡本おさみ)
夜行列車(歌:森進一)
襟裳岬(歌:テレサ・テン)
聖・少女(歌:西城秀樹)
狼なんか怖くない(歌:石野真子)
わたしの首領(歌:石野真子)
じゃぁ またね(歌:浅田美代子)
失恋魔術師(歌:太田裕美)
やさしい悪魔(歌:キャンディーズ)
アン・ドゥ・トロワ(歌:キャンディーズ)
あなたのイエスタディ(歌:キャンディーズ)
あぁ グッと(歌:近藤真彦)
全部だきしめて(歌:KinKi Kids)※オリジナルは「吉田拓郎とLOVE LOVE ALL STARS」名義
僕 笑っちゃいます(歌:風見慎吾)
我がよき友よ(歌:かまやつひろし)
歩け歩け(歌:かまやつひろし)
水無し川(歌:かまやつひろし)
たどり着いたらいつも雨降り(歌:モップス)
メランコリー(歌:梓みちよ)
地下鉄にのって(歌:猫)
雪(歌:猫)
ルーム・ライト(歌:由紀さおり)
両国橋(歌:由紀さおり)
東京メルヘン(歌:木之内みどり)
たべちゃうぞ(歌:ガチャピン)
アゲイン (歌:アグネス・チャン)
ハート通信 (歌:アグネス・チャン)
ハート通信 (歌:石川ひとみ)
いつか街で会ったなら (歌:中村雅俊)
さすらい時代 (歌:中村雅俊)
あゝ青春 (歌:中村雅俊)
青春試考(歌:中村雅俊)
注文の多い恋人よ(歌:中村雅俊)
唇をかみしめて (歌:武田鉄矢)
イメージの詩 (歌:浜田省吾)
マキシーのために (歌:かぐや姫)※プロデュース・アレンジ
歌ってよ夕陽の歌を (歌:森山良子)
バードマン (歌:小室等)
流星 (歌:真心ブラザーズ)
人間なんて (歌:MICA)
恋の歌 (歌:ラニアルズ)
ビートルズが教えてくれた (歌:ザ・バッド・ボーイズ)
チークを踊ろう (歌:ザ・バッド・ボーイズ)
クジラのスーさん空をゆく (歌:シュリークス)
君住む街 (歌:杉田二郎)
エトランゼ (歌:五十嵐夕紀)
ほ・ほ・え・み (歌:五十嵐夕紀)
潮騒の詩 (歌:沢口靖子)
不思議な夏 (歌:沢口靖子)
夏休み (歌:坂上香織)
あゝ青春 (歌:トランザム)
風になりたい (歌:川村ゆうこ)
風の街 (歌:山田パンダ)
落陽 (歌:山田パンダ)
旧友再会フォーエバーヤング (歌:山本山田)
ドン・ファン(歌:神田広美)
幸福なんてほしくないわ (歌:酒井法子)※入江剣名義
恋かくれんぼ (歌:冨田靖子)※入江剣名義
夜汽車 (歌:梅沢富美男)※入江剣名義
春の風が吹いていたら (歌:遠藤久美子)
黒い瞳 (歌:南沙織)
鏡の中の少女 (歌:倉沢淳美)

[編集] 書籍

[編集] 自著等
気ままな絵日記(1972年・立風書房→角川文庫)
明日に向かって走れ(1976年7月・八曜社→角川文庫)
BANKARA(1983年8月・角川文庫) ※歌詞集
俺だけダルセーニョ(1984年1月・集英社)
自分の事は棚に上げて(1992年10月・小学館→1998年10月・小学館文庫)
ふたたび自分の事は棚に上げて(1995年1月・小学館)
吉田拓郎 CLUB26 教えてハワイ(1996年8月・TOKYO FM出版)
吉田拓郎・お喋り道楽(1997年1月・徳間書店) ※対談集
吉田拓郎のワイハーへ行こう!!(2001年3月・ワールド・フオト・プレス)
もういらない(2002年4月・祥伝社)
晴れときどき拓郎 Younger than yesterday (2003年7月・小学館)

[編集] 解説書等
誰も知らなかったよしだ拓郎(1975年・山本コータロー著・八曜社)
吉田拓郎 挽歌を撃て(1980年9月・石原信一著・八曜社)
俺達が愛した拓郎(1985年8月・石原信一他著・八曜社)
吉田拓郎'70-'90ヒストリーブック(1990年10月・田家秀樹著・フォーライフ) ※ビデオBOX付録
吉田拓郎ヒストリー 1970-1993(1994年1月・田家秀樹著・ぴあ)
地球音楽ライブラリー 吉田拓郎(1996年9月・田家秀樹監修・TOKYO FM出版)
吉田拓郎サマへの道(1999年10月・福島直子著・ネスコ / 文藝春秋)
豊かなる日々 〜吉田拓郎、2003年の全軌跡〜(2004年6月・田家秀樹著・ぴあ)
ヤング・ギター・クロニクル Vol.1 吉田拓郎 これが青春(2007年2月・シンコーミュージックエンタテイメント) 

[編集] 写真集他
よしだ・たくろうの世界(1971年12月新譜ジャーナル別冊・自由国民社)
いまです よしだたくろう(1972年11月・立風書房)
拓郎・かぐや姫 5万人 炎の12時間(1975年9月・八曜社)
ドキュメントつま恋(1975年9月・共同音楽出版社)
吉田拓郎・大いなる人(1977年12月・八曜社)
吉田拓郎One Last night in つま恋 1985(1985年10月・ユイ音楽工房)
TAKURO-A magazine filled with essence of sexy guy(1986年・フォーライフレコード)
公式記録BOX 吉田拓郎&かぐや姫Concert in つま恋2006(2006年12月・阪急コミュニケーションズ)

[編集] 参考文献
フォークってなんだ(1979年4月・三橋一夫著・日本放送出版協会)
ぼくの音楽人間カタログ(山本コータロー著・1984年5月・新潮社)
フォーク黄金時代(1992年11月・シンコー・ミュージック)
日本フォーク紀(1992年12月・シンコー・ミュージック) 
日本フォーク私的大全(1999年1月・なぎら健壱著・ちくま文庫)
フォークソング運動(2001年4月・辻俊一郎・新風舎)

[編集] 外部リンク
吉田拓郎 ∥ TEICHIKU
パラダイスデジタル内の吉田拓郎のサイト
吉田拓郎の詩
吉田拓郎提供曲
ぷらいべえと 拓郎リンク

[編集] エピソード
修正依頼 この項目は、文章の表現が冗長(過剰)・執筆者の個人の主観での記述や批評・スタイルマニュアル通りでないレイアウト・エッセイ(随筆)的・コラム(評論)的である・不適当な翻訳、その他百科事典に適切でない内容の記述など、改善の余地があるため、修正・推敲を広く求めています。


[編集] その1
まだ売れていなかった頃、加藤和彦が吉田を認めて大切なギター(GIBSON J-45)を贈った。この2人は今も師弟関係にある。
上京当時は暇で、ナンパした女の子から夜、「絡まれてる」と電話があったら出かけて行ってケンカする、用心棒のようなことをやっていた。更に最初の事務所は新宿の酒屋の2階にあり、下で酒を飲むとすぐケンカになった。金が無かったので、この頃は新宿の安酒場で安酒をあおり何かといえばケンカした。こういったことで拓郎はケンカっ早いと、その後週刊誌などによく書かれたため、売れたあとも店で飲んでいると度々ケンカを売られた。一般人に売られない時は、スタッフにケンカを売ったらしい。最初の妻・四角佳子と恋仲になったきっかけも拓郎のケンカである。路上で一般人同士のケンカの仲裁に入ったところ、逆に回し蹴りを浴びて顔面血だらけになった拓郎を、六文銭のメンバーと一緒にいた四角が介抱したことによる。
友人の泉谷しげると昔、飲み屋で大喧嘩をしたことがあるが、吉田は泉谷に勝ってしまったというエピソードがある。この喧嘩の仲裁に入ったのが森山良子。森山は殴り合っている二人に「こら拓郎!泉谷!いい加減にせぃ!」と叫んだという。
かまやつひろしに提供した「我が良き友よ」で歌われる“下駄を鳴らして奴が来る。腰に手ぬぐいぶら下げて”は拓郎のことを歌ったものと言われた。当時の流行の洋服店に入っても店員に「今日は下駄じゃないんですね」と言われ、この頃は道行く人にもケンカを吹っかけると思われていた。地方で静かに食事をとったり、お酒を飲んだりしてても店員に構えられ「今日はおとなしいですね」なんて言われ「何を期待されてるんだろう」と思ったと言う。
そのかまやつについて、拓郎は「東京へ来てから女、アルコールなど軟派系の遊びは全部かまやつさん。今日の僕があるのは、かまやつさんのおかげ。身体はガタガタですけど」と言う。かまやつは当時流行の最先端をいっていた業界人らと付き合い、拓郎をそういう人達が集う場所に連れて行った。作詞家・安井かずみの自宅は「川口アパート(プール付き)」と呼ばれ加賀まりこ、野際陽子、コシノジュンコや当時のトップモデル・シャロン宮田、ナンシー村井ら多くの業界人が集った。そこは大使館のような世界で、カルチャー・ショックを受けた。誰にも紹介して貰えず、「絶対に東京に負けてはならない」との思いを更に強くした。同業者だった安井には「あなたの詩って男のエゴばかり、女のことなんか何も分かってない」と言われ大ゲンカとなり泣かれて、拓郎にいじめられた、と言い触らされた。しかし安井の言葉はとても響き、すごい大事な人を失った感じがある、と述べている。
泉谷と1975年頃、当時慶應義塾大学在学中で、清純派で売り出していた壇ふみと、ある男性誌で対談。この中で拓郎は壇に「あなたは男に一発やられちゃったら変わっちゃう人だね」と発言。
エレックレコードでの下積み時代のある日、なぎら健壱の近所のレコード屋に拓郎がキャンペーンでやって来たが、店のおやじが「あんな生意気な野郎は見たことがない。挨拶ひとつも出来ないヤツだ。キャンペーンで来てるんだから、もう少しそれなりの態度ってもんがあってもいいんじゃないか。ウチはあそこのレコードは売らない」とカンカンに怒っていた。その時、拓郎は歌詞カードをごっそり忘れていった。おやじさん、「生意気だったから、向こうから何かいってくるまで、こっちからは連絡しねえんだ」と言っていたが、それから随分たって「何もいってこないんだよ。なぎら君、あげようか」とその歌詞カードを差し出されたが、「あげようかといっても、そりゃマズイですよ」と貰うのは拒否した。それは自筆の歌詞カードだったという。
テレビ出演を拒否するようになったキッカケは、布施明とのケンカが原因と言われている。このときの経緯は諸説ある。なぎらの著書『日本フォーク私的大全』では、拓郎が初めて出たテレビの歌番組で、売れっ子の拓郎はスタジオ入りが遅れた。リハーサルも満足に出来ない状態は新人歌手としては異例で、これを面白くない布施が、「偉そうに、新人のくせに今頃来やがって」と言うと拓郎が怒って殴り、布施が泣いて帰った。それが原因で以降テレビは出ないと言い出した、というもの。他の説は、デビュー当初に出演した番組のリハーサルで曲がいわゆるワンハーフ(テレビではフルヴァージョンは長過ぎるので1番? 間奏? サビ等のように曲をテレビサイズに短くアレンジする事)で演奏するという当時のテレビ界の常識を知らず、バックのオケと歌が噛み合わなくなり、布施明から「そんな事も知らんのか!ド新人が!」というような罵声を浴びせられ、恥をかかされたという説もある。30年後、布施より正式に謝罪を受けた。また2004年のツアーではMCでもデビュー当時のエピソードとしてその件にも触れ「岡林を見習え」というような事を言われたらしい。これでテレビが嫌いになり、「最低でも20分。短い時間、3分間では表現出来ない」という理由にした。この頃のテレビでの歌の持ち時間はかなり短くされていた。3分という時間に関しても当時、揚げ足を取る人達も多く、3分で表現出来ないなら3分以下の曲を作るな、と言う批判も受けた。結果的にこの後、人気絶頂の頃にフルサイズ、数曲という形でかなりの番組に実は出演している。と言うのもテレビ拒否はしたものの、テレビの大きな影響力は分かりきっており、出演すればテレビに位負けする自分が悔しく、テレビというものをもう少し熟知してから拒否はした方が良い、と考え1975年には多くのテレビ番組に出演している。その感想は、テレビ局とプロダクションの絡み具合、その金絡みの毒々しさには唖然とさせられた、と自著で述べている。また出演した歌番組では同じくゲスト出演したかまつひろしに「どうしたの?」と問われ「3分じゃダメなんだ」だと語っている。
拓郎のテレビ拒否以降、他のアーチストも追随する形となったが、これは本人の希望ではなく、事務所あるいはレコード会社の戦略に従ったもので、フォークシンガーの多くは田舎から出て来て「テレビに出て有名になりたい」と考えてた者も多くその煽りを受けてしまった。イラストレーターや映像クリエイターとしても知られる泉谷は「オレはテレビ大好き人間なのに、拓郎の野郎が、いらないことしやがって出れなくなった」と言っていた。この後も梓みちよが、やはり拓郎の『メランコリー』を紅白歌合戦で歌うのに、短くしない、と突っぱねてごねるなど、歌手サイドと曲を短くしたがる制作側で揉める時代が続いたが、丁度この時代にフジテレビの「夜のヒットスタジオ」が歌謡バラエティー路線から正統の音楽番組路線へと番組コンセプトを転換し、出演者を8組を基準に調整して、原則フルコーラスで視聴者に曲を聴いてもらうという、当時としては斬新な試みを始めたことをきっかけに、各局の、特に時間制約が厳しい生放送の歌謡番組もこれに追随した。この形で大物歌手の出演を依頼するにあたり、フルコーラスはもちろん、その他歌手サイドから出される様様な条件を飲むに至り、現在の歌番組では、ほぼみなフルコーラス歌っており、こういう話は議論されることも無くなった。
上記の「夜ヒット」には1980年6月30日放送で初出演。当時、生放送の歌謡番組に出ることなど殆どなかった拓郎が出演するということもあり放送前より話題となった。実はこれより約8ヶ月前の1979年11月12日放送に拓郎は夜ヒット初出演が予定されていたが、直前になって曲目等の件でスタッフと折り合いがつかなくなって出演を拒否した。尚、この時に拓郎の代役として夜ヒット初出演を果たしたのが、まだレコードデビューして間もなかったCHAGE and ASKAであり、この出演を機に一気に彼らの知名度が上昇し翌80年の「万里の河」大ヒットの土壌が育つこととなった。この苦い前例を踏まえての出演とあって、夜ヒットスタッフは「あの娘といい気分」、アルバム収録曲から「いつか夜の雨が」の2曲を披露させる特別待遇を用意した。テレビに拒絶反応を示し続けた拓郎もこのような待遇を生番組にも関わらず与えてくれたことを感謝し、1987年、1年間の充電明け最初の歌披露の場として「夜ヒット」2度目の出演を快諾したり、後年、「夜ヒット」をリスペクトした特別番組の司会を引き受けるなど、同番組に対して強い思い入れを持っている。特に2度目の出演(1987年12月30日放送)で披露した「アジアの片隅で」は番組史上に残る伝説のシーンとして現在も語り継がれている。この番組の司会だった芳村真理、井上順の気取らない司会振りにも拓郎は信頼を寄せており、この出演を契機に芳村、井上両人とも親交を持つようになったようである。ちなみに1987年12月30日放送では司会は芳村真理と古舘伊知郎だった。
他にも泉谷は煽りを受けている。デビュー当時、フォークシンガーは地方出身者が多かった。そのため「東京出身では売れない、フォークシンガーは地方出身」とレコード会社(エピックソニー)の戦略に従い、一度も住んだことの無い、親の出身地・青森の出身として売り出された。出身地偽証である。またアマチュア時代に出演していた渋谷のライブハウス「青い森」にちなんだとの説もあった(泉谷は自ら東京生まれの東京育ちで、一度も青森には住んだことがないと公表していたが、2007年2月18日BSフジのオールナイトニッポンアゲインで、3歳までは青森で育ったみたいだが、両親がその事をまったく言わなかったなどと発言した)。
デビュー時に年上と思っていた師と仰ぐ拓郎が、自分より年下と分かり、自ら一歳さばを読み拓郎と同学年としてきた山田パンダをずっとタメだと思ってきた拓郎は会うたび「おい!馬鹿野郎!」と呼び続けてきた。パンダは30年以上たった2005年に還暦を迎えた際、年齢偽証していた事を公表した。
自身もファンだった当時21歳で人気絶頂期だった浅田美代子を自分の持ち番組にゲストで呼び、その後結婚した逸話がある。その後再び同じパターンで森下愛子とも結婚。まったく同じことを弟子の長渕剛が石野真子の時にした。近年浅田が芸能界に復帰し、トーク番組でその時のことを詳しく話してしまい、拓郎の行状が明らかになった。ゲスト出演して電話番号を交換すると後日、拓郎から電話がかかってきて「今、小室等さんと飲んでるんだけど来ない?」と誘われた。マネージャーからは会ってはいけない、と釘をさされていたが、言われた酒場に行くと拓郎一人しかいない。「小室さんは?」と聞くと「ああ今帰ったよ」と言った。小室をダシに使った訳である。一説には男子トイレの前で拓郎が通せんぼをして「俺と結婚しろ!」と浅田に迫ったところ、浅田は恐怖と照れと喜びが混ざって頭の中が真っ白になり、思わず「ハイ」と承諾してしまった、とも言われている。森下愛子の時の手法は不明だが、ラジオのゲストで呼んだ時、森下は警戒し親友の竹田かほり(現・甲斐よしひろ夫人)と一緒にやって来た。
拓郎からプロポーズをうけた浅田美代子の返事は 「......ハゲない?」だった。
偶然なのだろうが、歴代の三人の夫人は名前に他の二人と共通の文字を含んでいる(最初の妻が「佳子」、二番目は「美代子」、三番目=森下愛子が「佳代」)。
自著に、雨で濡れてる女を見たら、すぐ傘を差し出すほどカッコよく振舞えないから、自分の持っている傘を捨てて「ひどい雨になりましたネー。どこかその辺の店にでも御一緒に入りませんか」と迫ることにしている、とある。

[編集] その2
フォーライフから新人がなかなか出ない1年半くらいたった頃、小室さんがこのまま社長でいいのか、と陽水と泉谷の三人で話すと、陽水は「俺の知っちゃこっちゃない」 泉谷は「俺にやらせろ」と言うので、自分がやるべきだ、と決意した。
これもオールナイトニッポンで、同じ広島出身の矢沢永吉をゲストに呼んだ時、「矢沢は自分の曲をプライベートで聞くか」という話になった。矢沢は「あまり聞かない」と言ったが、拓郎は「よく聞く、それも寝るとき自分の曲を聴きながら寝る」と言っていた。
その矢沢やキャロル登場には、大きな衝撃を受けたと述べている。
矢沢はソロデビューした1970代後半に、フォーライフの社長となった拓郎にマネジメントのことを聞きに夜よく電話してきたという。
小室哲哉やつんくのプロデュース活動が話題を呼んだ頃、ミュージシャン系プロデューサーの先駆者としても紹介された。拓郎自身、プロデューサー業を手掛け始めた1972年頃から既にプロデューサー業に対する強いこだわりが持ち、1976年の自著『明日に向かって走れ』の中でも、プロデューサーとは何か、との持論が長く語られている。
自著にあるプロデュースした人達のレコーディングのときの話。木之内みどり が『東京メルヘン』を「アー」と一声上げると、皆が椅子から引っくり返った。 梓みちよ ―「アナタは歌がうまいから困るんです。僕としては、もっと下手に、そう、思い切って下手クソにやって欲しいんです」と言うと『メランコリー』を目一杯下手クソに歌って一言 「これでいいわけ。フン、変なの、アンタ達の音楽」 石野真子 ―阿久悠が他のアイドルとは違う売り方を考え拓郎に作曲を依頼した。しかし「本当にこの人デビューするんですか」と疑いたくなるほど最初は太っていたという。不思議な芸能界は3ヶ月で見違えるように変身させて来た。デビューに賭けたスタッフは『狼なんか怖くない』のレコーディングが終了すると大歓声に包まれたという。 「キャンディーズ ―「普通の女の子に戻る」と宣言したとき『アン・ドゥ・トロワ』のレコーディング中。スーちゃんに「本当に解散しちまうの?」と聞くと「申し訳ありません、事務所を通してください」と言われた。 原田真二 ―陽水と原田の三人で飲みに行って、時間が経ち酔いが回ると陽水が原田を見て「じっと見ているとおかしな気持ちになってくるんだ」と言うと同じことを考えていた拓郎も顔を赤くした。 中村雅俊 ―ドラマ「俺たちの勲章」にゲスト出演した五十嵐淳子と熱愛結婚したのは有名だが、『いつか街で会ったなら』のレコーディングで来た中村は、某有名俳優(松田優作? )と五十嵐の取り合いがうまくいかず、具合が悪いので帰らせて欲しい、と帰ってしまったという。
その中村は、それ以降拓郎と付き合いがあるらしいが、オールナイトニッポンの生放送中に泥酔状態でスタジオに乱入した事がある。有楽町か銀座かその辺で飲んでたのだろうが「俺は拓郎が好きなんだ」「分かったよ」、「俺は拓郎が好きなんだよ」「ハイハイ」、「だから拓郎が好きなんだよ」「分かった」などと同じことをしつこく何度も言う程酔っ払っていて、10分程で帰っていった。予定していたゲストでは無かった。拓郎の方の酒がらみの話では、地方でコンサートをやった後に地元イベンターがセッティングした打ち上げのお店に、ブスしかいないと怒って帰ってしまうことがあるそうである。
のちに古着ブームを興した山崎眞行が、1975年、表参道で警官ともめてた拓郎に助太刀して仲良くなると、ペニーレインに行こうとした拓郎は変更して山崎のバー・「シンガポールナイト」へ行った。はじめて来た店で“レミーマルタン”のボトルを注文。この年のつまごいコンサートの打ち上げをこの「シンガポールナイト」でおこなったが、主役の拓郎は途中で帰ってしまった。
フォーライフの社長をしていた頃、夜中に武田鉄矢から「飲みませんか」と電話が掛かってきたら、ひょいひょい出かけて行った。夜中の酒の誘いは断る事も多いが、武田からの誘いの場合は、綺麗どころが待っており武田のトークで充分盛り上がっている所で、「はい、今お話していた吉田さん、はいはい拍手!」「よっ、フォーライフの社長!」とよいしょで美人局のようだったという。
広島フォーク村時代からの知り合いである浜田省吾とも師弟関係にある。1974年の全国ツアーでは、バック・バンドとしてまだデビュー前だった無名の新人バンド「愛奴」を起用する。浜田はドラムを担当していた。浜田は1997年に拓郎の「イメージの詩」をカヴァーしたり、後のつま恋コンサートで再びドラムで参加するなど、長きに渡って交流を持ち続ける。
オールナイトニッポンでは「吉田拓郎死亡放送事件」なる出来事もあった。1981年3月13日金曜日深夜、拓郎は風邪による発熱と胃けいれんで急遽出演できなくなり、代役を務めたその日の宿直勤務のアナウンサーとディレクターが「何か面白いことをやろう」と発案したものだった。テーマ曲は葬送行進曲に替わり、「特別番組吉田拓郎さんをしのんで」というテーマで代役のアナが進行をした。番組中死んだとは一言も言わなかったものの、「自殺の詩」や「どうしてこんなに悲しいんだろう」等、追悼色一色の放送にリスナーの問い合わせの電話は鳴り続け、マスコミも駆け付ける大騒ぎに。約30分後に「これは冗談です」と言った後、本当の事情を説明し、自宅で療養中だった拓郎と電話をつないでやりとり(その時芸能界を引退していた美代子夫人(当時)も電話口に登場)し始めたが、今度は抗議の電話が殺到、翌日の新聞にも「行き過ぎた深夜放送」「悪いシャレ」などといった記事が出てしまった。ちなみに、代役を務めたアナウンサーは現在フジテレビに転籍した塚越孝で、担当したディレクターは現在は故人(ニッポン放送「ショウアップナイターネクスト」より)。後にとんねるずがこのジョークをテレビに持ち込んで、やはり顰蹙を買った。(とんねるずのみなさんのおかげです#おかげです事件史参照)
吉田拓郎という名前が嫌で「入江準」という芸名にしようかと考えていた。1980年頃、NHK-FMの『サウンドストリート』という番組で水曜のパーソナリティをしていた烏丸せつこにゲストで呼ばれた。烏丸はのっけから「陽水が好き」と言い放ち「陽水のどこが好きなんだ」と言うと「陽水って名前がいいよね」とまたも言い放った。「俺はよしだだもんな~」と嘆いていた。
1970年代最後の夜、日本青年館でのライブで「古い歌は一切歌わない」と宣言したが、更に自らが始めたコンサートツアーで、演出のプログラム化を憂い、特に本来無いはずのアンコールのプログラム化を嫌い、一時アンコールもやらなかった事がある(詳細情報求む)。近年ではコンサートでのアンコールは常識で、アンコール後に一番の人気曲を持ってくるアーチストもいる。香取慎吾が「SMAPはアンコールを1時間やります」と笑い話で言っていた。
『拓郎105分』という特番が放送された時、学生時代拓郎の追っかけをしていた中島みゆきが、拓郎のことを「よた」と呼んでいた。与太者の意味か与太郎の意味か、または、「よしだたくろう」の姓と名の頭文字(「よ」と「た」)を取った呼称であるという説もあるが、いまだ推測の域を出ない。
ユーミンからの感謝状は「女と見れば一様に声をかけ何とか~」と言う賞だった。
桑田佳祐も同番組で感謝状を贈った。『勝手にシンドバッド』でデビューした時「何を言っているか聞き取れない、あれは歌か」などのバッシングもあったが、拓郎は「素晴らしい。僕はテレビがダメだったが彼はテレビを壊している」と絶賛。それに応えての感謝状で「サザンのレコード売り上げに貢献してくれたで賞」だった。なお拓郎は桑田も多用する字余りソングのパイオニアとしても知られるが、桑田は拓郎批判ともとれる(文献の中には、拓郎を葬った、などと解説しているものもある)そのまま『吉田拓郎の唄』という曲を書いたことでも知られる。また『Big Star Blues (ビッグスターの悲劇)』もダスティン・ホフマンやオノ・ヨーコの歌詞が出てくる事が言われるが、レコードが出た時は桑田自身「吉田拓郎の事を歌った」と発言。
2003年夏に吉田が休業中、サザンオールスターズがライブにて自身の楽曲『吉田拓郎の唄』の歌詞を大幅に変更。遠い地から吉田にエールを送った。
1998年9月19日・26日放送の「LOVE LOVEあいしてる」では、吉田の曲の中で「恋の唄」が好きだと言う所ジョージから、曲をくれるように頼まれた。吉田は快諾したが、そのお返しに所からもらった曲が「精霊もどし」と言う、グレープの「精霊流し」をパロディにした曲。所は自分が作ったにも関わらず、「拓郎さんもすごい歌を作りますね」と言っていた。その後所はJASRACに登録されている作詞者・作曲者名も書き換えようとしたが、認められなかったという。ちなみに、所の担当レコーデイング・ディレクターはグレープでさだまさしとコンビを組んでいた吉田政美。
明石家さんまの「さんまのまんま」にゲスト出演した時、席に座ってタバコ、マイルドセブンを取り出した。するとさんまが「拓郎さん、ハイライトとちゃいまんの?」と言うと「..もうきつくて、体のこと考えて変えたんですよ」と言った。さんまは「僕は拓郎さんが、ハイライト吸ってるっていうから、ずっとハイライト吸ってたんですよ~ あんたええ加減にしなはれ」と言っていた。さんまのカラオケでの愛唱歌は「ハイライト」ではなく「イメージの詩」であるらしい。
2006年10月4日に放送された「さんまのまんまスペシャル2006年」でのアルフィーとの絡みで、さんまが「拓郎は、『となりの町のお嬢さん』も"ゆかたの君~は"『旅の宿』も浅田美代子の事を唄った歌」と言っていたが、『となりの町の~』はそうかも知れないが『旅の宿』は浅田美代子のデビュー前の曲なので勘違いと思われる。
「LOVE LOVEあいしてる」に出演した爆笑問題の太田光が、好きな曲として「流星」を歌った事がある。
2000年に「LOVE LOVEあいしてる」に出演したポルノグラフィティが広島県因島市出身だったこともあり、吉田も番組内でポルノグラフィティの曲、「アポロ」を広島弁で歌ったらどうかと提案し、結果吉田の訳詞で「アポロ広島弁バージョン」が生まれ、同年12月に放送されたスペシャルで歌われた(このとき、冒頭の部分は吉田が歌っている)。後に2006年のLOVE LOVEあいしてる~堂本兄弟の統一人気ライブ投票では堂々の1位を飾り、ポルノグラフィティによるアポロ広島弁バージョンが再び披露された。
コミックシンガーの嘉門達夫は「ペニーレーンでバーボン」にインスパイアされた字余りの歌「天才でバカボンを」を作った。なお、「ペニーレーンでバーボン」が放送禁止なのは、歌詞に「つんぼ桟敷」という慣用句が有るからだが、2006年9月23日のつま恋コンサートでは「蚊帳の外」と変えて歌い、テレビ放送された。

[編集] その3
「吉田町の唄」は新潟県吉田町の若者共和国が、「町民の皆さんにとって心の糧になるような唄がほしいと言う事で、同姓である吉田拓郎さんに思い切ってお願いしてみました」というところから生まれた。吉田町は2006年3月20日に燕市・分水町と対等合併し、(新)燕市となった。
「LOVE LOVEあいしてる」では、気に入らないゲスト(またはあまり知らないゲスト)が出演した際には、ずっと下を向きしゃべろうとしない。例えば野猿やGLAYが登場しても下を向いたまま話さなかった。
1997年、浜田省吾は拓郎の50歳を祝って拓郎のデビュー曲「イメージの詩」をカヴァー。拓郎自身もコーラスとアコースティク・ギターで参加している。CDとアナログ盤が同時発売された。
地元である鹿児島で吉田拓郎のライブを見て衝撃を受けた長渕剛は、漠然とギターを手に取り歌を作り始める。
CDショップに行ったとき、SHAZNAのIZAMの写真が張ってあったのを見て「いい女だなぁ」と言った。
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最終更新 2007年9月14日 (金) 23:37。 All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License. (詳細は 著作権 を参照)
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Posted by ほまし at 05:40Comments(0)TrackBack(0)メモメモ…

2007年09月13日

map黒崎マーカス

八幡西区黒崎1-12-5 tel 093-621-3768



  

Posted by ほまし at 22:37Comments(0)TrackBack(0)ライブメモメモ…

2007年09月01日

070828月食

  

Posted by ほまし at 23:05Comments(0)TrackBack(0)

2007年09月01日

070625?

  

Posted by ほまし at 22:58Comments(0)TrackBack(0)